



前回までのあらすじ
今日はたかとも、なにをしていたんだ?


一度崩壊したコミュニティの事例を研究するために、そして原爆の悲惨さを改めて知り生命の尊さを改めて学ぶ為に広島原爆ドームと広島平和祈念資料館に行ってきたよ!
広島原爆ドームと広島平和祈念資料館



▼原爆ドームの公式ホームページはこちらから▼
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/dome/index.html
原爆ドーム(げんばくどーむ)
英: Atomic Bomb Dome)の名で知られる広島平和記念碑(ひろしまへいわきねんひ、英: Hiroshima Peace Memorial)は、1945年(昭和20年)8月6日8時15分日本の広島市に投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える記念碑(被爆建造物)である。もともとは広島県のさまざまな物産を展示するため[1]の広島県物産陳列館として開館され、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」と戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産[注 1]と呼ばれている。
ウィキペディアより参照
ヒッチハイク中ということもあって、感受性がとてつもないほどに感度高めだったから、考えることも沢山あったよ。
本題の前におさらい
−ここで一つおさらいがあります。この「日本縦断ヒッチハイクで漢一人旅」の基本ルールとしては
- 頼まれごとには全てYES
- ヒッチハイクで乗せてくださった方の命令一つ必ず聞く
- アポはなるべく前日、人伝てで人にお会いさせていただく
- ヒッチハイクで必ず県を跨がなくてはならない(都市圏は別)
- ヒッチハイクで乗せてくださった方には最大の感謝の気持ちを込めて似顔絵をプレゼントする。
たかともはこのルールを遵守しているんだべ。


本日はたかとも が率直に感じたことを述べていきます
※伝わるかわかりませんが拙い言葉で思いのままを綴らせていただきます。



広島に起きた悲劇の様子やその影響に関しては、テレビやはだしのゲン、ユーチューブの映像を通して知った気でいましたが
原爆ドームや広島平和記念資料館の展示物を見て想像以上の惨さでしたね。
原爆が落とされた社会背景には各国の思いや考え方の錯綜があったと学びましたけど
それにしたって一般市民がここまで被害を被ったという事実に対してとてもじゃないけど許せないなと。



このような過ちを繰り返さないように
広島が、日本が掲げている「核のない世界」を目指すのは第1前提は遵守すべきです。
本日のブログでは非核化を全面的に推奨するに留まらず考えを広げていきます。
政治的問題や特に外交関係を無視して主観で思いを述べるならば、
僕は肉体的被害を被る暴力になんら正義はないと思っています。
ガンジーが非暴力を訴えたように、たとえ保身のためでも武力は必要ないと僕は思うのです。



AI社会、IOTの技術向上によってサービスがテクノロジーに落とし込まれ
あらゆるものが体験のうちに溶け込むようになっているのに
どうして戦争だけは突き詰めた結果が暴力なのか。
子供達がなぜペンではなく銃を持たなくてはいけないのだろうか。
何故、人を思う気持ちのある善良な市民が突然死ななくてはいけないのだろうかと。



殺人に人の意思が込められているならば、僕は悪だと思うのです。
悪意であれ、善意であれ、正義の捉え方によって左右される「人間の大義」に人の尊い命を殺める権利はありません。
広島長崎を含む原爆による大量虐殺という行為自体、もちろん道徳的にも倫理的にも許されることではないのです。
ありきたりですが、自然災害と戦争による人の死は本質は違えど「人が死ぬ」という事実は揺るぎません。
いつもそこにあった景色が、いつも隣にいてくれた人が無に帰してしまう。
しかし僕は自然災害における人の死に関しては「人間の大義」が直接絡んでいないのである程度、この世の性であると割り切ることができるのですが。



人の意識によってもたらされる望んでいない死を0にすることこそ、世界平和のために重要だと。
そう思いました。
別に僕に世界を変えるほどのセンスも学力もないので、
とりあえず、誰かを認めてあげようと心がけることが
今からでもできる世界平和のための一歩なのかなと。



戦後復興に関して
−本日はただ原爆の惨さを学びに来たわけではありません。しっかり研究して帰らなくてはいけないので広島平和祈念資料館一階にある図書館に行き、
原爆投下からいかにして、ハードが形成され地域コミュニティが成り立って行ったかを書籍を通して調べました。



−詳しいことは述べませんが、これらの書籍を読んで得たことが大きく2つあります。
まず一つ目は、一度ハード、コミュニティともに崩壊した地域は崩壊以前よりも町としての機能が発達することが読み取れました。
広島の場合、沢山の自治体や民間の企業から「広島の復興計画」が有志で募られたようです。原爆投下後、度重なる議論のもとで広島は日本の中でも有数の都市になりました。
二つ目は、先にも述べたように崩壊した町にストーリー性や共感性があるほど、街を復興させようというちからが生まれる傾向があることです。
普通に考えれば、原爆の規模によって困った人が多ければ多いほど、関わっている人多くなってくることは察することはできますが
原爆当時の場合、それ以上に生き残った人がなるべく沢山の人に原爆の経験を伝えていたようです。リアルを伝えることによって人の心が動き、自分ゴトとして事象を捉える人の総量が多くなる。
そうして、広島は原爆という悲劇から復興していきました。
戦後復興から見る災害後の地域のあり方
悲劇を経験した地域は、悲しみがあればあるほど爆発的なイノベーションを起こす。
僕が広島原爆と一日向き合って出した、ちっぽけな結論です。
戦後の日本全体も国民が団結してせっせと働きバブル景気が生まれ、世界の中でトップの経済大国になりました。
しかし、今の日本はあの頃ほど日本は世界の中で輝いていませんよね。
慢心なのか、成功した理由を分析すること、継続することを怠ったのか、
そんな簡単な話ではなく
社会的背景ももちろんありますが…
▲詳しいことはこちらの記事をチェックしてくださいね!▲
国を地域に置き換えて、軽く分析すると。
崩壊→悲しみ→共感→協力→復興→崩壊以前よりも地域が元気になる→停滞
この動きが被災地における「地域」の大雑把な流れなのかもしれません。今の日本が本当の意味で停滞しているのかは定かではありませんが。
戦後復興からこれからの地域を見ると、どうにかして「停滞のフェーズは」避けていきたいところ。
その上で大切になってくるのがなんなのか。例えば、地域に協力してくれた人や地域との継続的な関係性構築なのか。それとも、住民が主体的に動くことが必要なのか。
どちらも大切ですが、細分化してみると本当に大切なのは案外片方によっていたり、思いもよらぬ事象が大切であることが浮かんできたりするんです。
若者目線でそれらに関してもこの旅で深め、整理していきたいところです。
本日も最後まで「おてもとにたかとも」を見ていただきありがとうございました!
明日は島根県雲南市でとある人に会ってきます!
次回もお楽しみに!!