



クラファンの無茶振りリターン第一弾の動画はこちら
今日はたかとも、何をしていたんだ?


今日は長野県は飯田市でUターンで地元に戻ってきた「オックさん」にヒアリングして、株式会社週休いつかさんの「裏山しーちゃん」の社長である深海さんにお話を聞いて、最後に林檎並木を見てきたんだ。
?!意味のわからない単語が多すぎだべ。











「裏山しい?」「羨ましい?」謎だべ…


お邪魔してみた!






棚の掃除をしていらっしゃったので従業員の方かな…?と最初は思って、この方に少しお話を聞いてみようとしたんだ。
すると…



『ソトコト』
毎月5日発売の月刊誌。「ソーシャル&エコマガジン」を標榜し、自然社会との関わりから生まれる豊かなライフスタイルを様々な観点から提案する。かつては「ロハスピープルのための快適生活マガジン」を謳い、環境問題やロハス・スローフードに関する話題を多く提供していたが、現在は食や移住・地域コミュニティといったテーマが主に扱われている。創刊100号記念号(2007年10月号)から、世界初の「カーボンオフセットマガジン」となった。ソトコト(SOTOKOTO)とは、アフリカのバントゥー系民族の言葉で、「木の下」「木陰」を意味する[8]。電子版もリリースされている。
地域を語るには欠かせないバイブルみたいな情報誌だべ。


謎の男の人:一旦、その本二階で読んできて!
もちろん、「YES」!
二階に上がると



え?なんだろう。この空間、総じて謎…
デスクワークしている方がいるということは
コワーキングスペースなのかな?
−たかともはデスクワークしていた女性の方にヒアリングしてみることにしました。



−ん?どこかでみたことのある顔だな。
と思ったら、昨日僕が宿泊したシェアハウス「やまいろ」で働いていらっしゃった方でした!
お名前はオックさん。出身はこちら飯田。
京都の福祉系の大学で学んだ後、地元にUターンしてきらしい。
イラストがとっても上手くて、特に名刺が可愛いかったです。



https://www.instagram.com/okku_photopaint/?hl=ja
オックさんからどんな話が聞けたのが?


今から話していくね!
オックさんに飯田市のこと聞いてみた!
−飯田市ってどういうところ?
オックさん:飯田市は山に囲まれているの。閉鎖空間だからこそ、他の県とあまり比較しないからその分幸せと感じている人が多いイメージ。後、みんなどちらかというとおっとりしている住民性を持っているよ。
でも、住民の方達が合致しすぎていて少数意見はないがしろにしてしまっている感じがする。
−出かける時は?
オックさん:東京まで四時間かかるんだよね。長野市まで三時間半かかってしまうから逆に名古屋に片道二時間かけていく人が多いかな。休日は飯田市の中心街にきてイオンなどで買い物を楽しんでいるね。
長野って縦に長いから、移動する際も「横」という表現をあまり使わないの。
−Uターンで戻ってきた時に地元の友達は少なくなっていませんでしたか?
どちらかというと、Uターンで戻ってきた際に、例えば今ままで同じクラスになったことがない人と改めて会う機会があったりするから、一概に学校の中のコミュニティがなくなるってことはないかな。どちらかというと増えるよね!
お時間いただきありがとうございました!
オックさん:あ、一階に社長いたでしょ?
??!(あちらの方が…)
それっぽくなく見える様に演出していたのか…一本取られた。
裏山しいちゃんとは
貸本屋、水引、古道具、珈琲、スパイス、不動産、デザイン、駄菓子、フリースペース、、カオスが10円から楽しめるお店
フリースペースの貸切利用も可能です
https://airrsv.net/41ch/calendar
いろんなことやってんだなあ。


社長にヒアリングしてみた!



−なぜこの飯田という場所でこの様な取り組みを行なっているのですか?
深海社長:涼しかったから。
涼 し か っ た か ら


−今までのキャリアの流れをざっくり教えてください。
深海社長:私は社会問題の根底にある改善すべきものとして「社会構造」そのものがあげられると考えている。ほとんどの組織の仕組みが三角形の形(ヒエラルキー重視)をしていて、上から仕事がくるのを下にいる人たちは待っている状態なんだよね。そうなってしまうとどうしても下から上へ情報が伝達されないんだよね。だから僕はその仕組みであった約300名規模小売業を7年働いた上で辞めたんだ。
では20名くらいのWEBデザイン系事務所ではどうだろうか、と疑問を持ってまた7年試行錯誤してみたんだ。最初に比べれば理想に近づいて行ってはいるが、それでもまだいまいち。
それでは少数精鋭で組織をマネジメントすれば、理想の組織運営を行うことができる、で今の形(自分で経営)になったというわけ。理想の組織運営をする上で大切になってくることがどうやら組織を「生命体」と捉えて、横のつながりで動かすことが大切になんだよ。
私はそのマネジメントにおける概念を「自律分散共同型組織」と言っているよ。
何故「裏山しいちゃん」というネーミングにしたんですか?
何をしているかをあえてあやふやにしているんだ。例えば、「コワーキングスペース」とか、「多目的スペース」みたいに枕詞を使ってしまうと利用者にとって思考停止になってしまう。
私は「内発性」という言葉を組織運営においても、街づくりなどにおいても大切にしていて、先にも言った様に会社の従業員が全員内発的動機を持っていれば、組織は良くなっていくと考えているんだ。
私が小学生の時にトイレ掃除をしていて、最初は全然トイレ掃除なんて面白くないなと思って全く掃除をしなかったんだ。掃除をしなかったらもちろん先生に怒られるよね?怒られたくなかったからトイレ掃除をなくなくしていたら、友達とトイレ掃除をいかに効率的に綺麗にできるかゲームをしてね。その際にCMで観ていたサンポールを使ったらゲームに勝てると考えたから、自分のお金で買ってきたんだ。驚くほどに綺麗に取れたんだ。でもなんで勝手に買ってきたんだって先生と親に怒られたんだけどね。
今思い返してみると内発的動機が若い頃の自分を動かしてたって思うんだよ。自分が何をしたいかと意思を持つことはとっても大切なんだよね。
だから住民の方にとって「アート」を用いてカオスを表現して「何をしているところなのか」を自分たちで考えさせて、実際にここにきてやりたいことをさせる。カオスの中からインスピレーションだけ与えて、人の内発的動機を最大限まで引き立たせる。そんな場所が「裏山しいちゃん」なんだよ。
飯田市の住民性を一言で
「やらまいか精神がある」ことじゃないかな。飯田市と他の地域が違うところが最初から自分たちでやってしまおうという感じがある。例えば、道路の畑の雑草を抜いて綺麗にしたいと住民の方が思ったら、他の自治体はまず行政に一連の申請をするけど飯田市の場合、自治体内の連携が驚くほど強固なので自分たちでほとんどの工程を終わらせるんだ。
「公民館」という言葉は世間一般からすると建物そのもののことを言うけど、飯田市では動詞として「公民館」と言う言葉を使うんだ。「公民館する」と言ったニュアンスで。
何故こんなにも自治体内が合致しているのか…
一時間半もお話いただきました。後日、後編みたいにもう一度記事にするかもしれません。
僕の中で留めておきたい学びがとっても多かったので共有はここまでにさせていただきます。
−いきなり訪問下にも関わらず、真摯に対応していただいたオックさん、深海社長、ありがとうございました。本当は5、6万とる講義内容だったらしい… give&give…。
林檎並木でまちづくり



その昔、この通りで大火事があった
飯田大火
城下町として発展してきた飯田市は、京都の町割に倣って作られ、こまかい格子状に長屋作りの建物が整然と配列されていた。しかし、その通路幅は狭く、また木造建物が非常に密集しており、文政の大火など何度も火災の被害にあってきた[1]。なお、飯田大火の前年にも負傷者4人、焼損棟数198、焼損面積3万3500 m2の被害を生じる火災が起きていた。
飯田大火は、1947年(昭和22年)4月20日午前11時48分頃に発生。火元は扇町付近の八十二銀行裏手の民家であり、折りからの乾燥状態と風速4 mの風によって延焼していった。パニックに陥った市民はそれと同時に、火災現場から遠い近いに関わらず一斉に消火栓を開いたため、水圧が低下し、警防団(消防団)による初期消火の失敗につながった。午後になると風速が15 mにもなり、ますます火災は延焼していった。このころには消防も手をつけることができず、結局約10時間ほど延焼しつづけた。市の中心部を含め3742棟が焼失し、焼損面積48万1985 m2。死者行方不明者3名。罹災戸数4010戸、罹災人員17,778人に及び、飯田中心街の約7割が焼失した。
被害発生要因として、気候条件の悪化、木造建物の密集、消防設備の不備、初期消火の失敗、土蔵の手入れが不備で十分な延焼遮断効果を発揮できなかったこと、市民の防火思想(防災意識)の欠如、戦後初の参議院選挙日で留守宅が多かった事などが挙げられた[1]。 亀井幸次郎は、八十二銀行のコンクリート製建造物がバリケードになって、火の手が東西に二分したことを延焼拡大の要因として挙げている。
辛うじて焼失を免れた仲ノ町区域(この町内には菱田春草の生誕地もある)には、2017年(平成29年)現在も、大火前の建物が残されている。



林檎並木はこの家事から力を合わせて団体同士が団結するために作られたんだ。
林檎並木が団結した復興の手立てになっていたのかなあ。
これきっかけで自治体の団結力が強くなったんだだべか?


飯田市は1947年(昭和22年)に、市街地の約4分の3を焼き尽くす飯田大火に見舞われ、復興時に市街地の防火帯としての機能を兼ね備えた、飯田市諏訪町(大宮神社前) – 扇町(市営動物園前)の区間に、延長1200 m、幅員30 mの街路がつくられた[6]。その街路の中央通りから扇町までの延長40 mの中央分離帯に、飯田東中学校の全校生徒が「りんごの実が輝く美しいまちに」という願いを込めて、りんごの苗木40本を植えたのが始まりである[6]。
その後、同中学校緑化部(現・並木委員会)の生徒たちを中心に、りんごの苗木は大切に育てられ、初夏には白い花をつけ、夏から秋にかけてリンゴの果実が実るようになり、生徒たちの手で収穫されて、市内の各施設へ「愛の贈り物」として届けられるようになった[6]。しかし、最初に植えられてから半世紀以上がたち、1960年代からモータリゼーションが始まると、周囲環境の変化により自動車とりんごの共存が難しくなってきたため、飯田市では、りんごが育つ都市環境の作り、人が集まる楽しいまち、次世代の子どもたちに誇れる整備を目標に、飯田東中学校の生徒と15の市民団体で構成された「りんご並木まちづくりフォーラム」で、りんご並木の再整備プランが策定された[6]。
この再整備によって、りんご並木を継承しつつ歩道と車道の区分けをなくし、公園のような道路へと生まれ変わり、りんご並木の北側に延長約800 mの桜並木も作られた[6]。
2001年(平成13年)には、りんご並木沿いに再開発ビル「トップヒルズ本町」が完成した[5]。トップヒルズ本町は、まちなか居住を推進するビルであり、上層階に居住機能を、下層階に商業や市役所機能を配置した[5]。続いて2002年(平成14年)に高齢者向けアパート「アシストホームりんご」が設立され、2004年(平成16年)には「トップヒルズ第二」の建設が始まった[5]。これら一連の事業には第三セクターかつタウンマネージメント機関の株式会社飯田まちづくりカンパニー(まちカン)が関与している[5]。
今でも林檎並木から、面白い活動が生まれているのはとても面白いよね。
明日は群馬県富岡までヒッチハイクします!お楽しみに!